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集団的自衛権違憲論争について その2 [ちょいと 一言]

先のBlogで ”憲法九条2項だけを見れば”陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。”との字面では陸海空の自衛隊さえ許されないと言う事になってしまう。”と書いた。

この違憲論争に、自民党の高村議員は最高裁判所の砂川裁判の判決文から、自衛権は違憲ではないとの主張を行っている。そこで砂川裁判の判決文を調べてみることにした。

判決文には、 判決は要するに、アメリカ合衆国軍隊の駐留が、憲法9条2項前段の戦力を保持しない旨の規定に違反し許すべからざるものであるということを前提として、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約3条に基く行政協定に伴う刑事特別法2条が、憲法31条に違反し無効であるというのである。
 

1.先ず憲法9条2項前段の規定の意義につき判断する。 そもそも憲法9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであって、前文および98条2項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。

すなわち、9条1項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条2項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。 かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。  憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。 しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。”

と述べられている。この判決文には、判決当時から学者たちに、様々な反対意見が述べられた。 しかし50年以上も経過した現在、現実のものとしてこの判決文は有効なものとして機能している。現状の周辺国の状況を見ると我が国の自衛は、日本国単独でしうることができないのは、多くの人々が認めていることで、現在進められている安保法制に反対している、民主党などの野党でさえ日米安保の必要性は認めている。

この砂川判決の中で述べられているように ”わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。”とあり、また”わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。”とある。 

このように自衛は主権国家として当然のものであり、国家の平和と安全を維持し存立をまっとうするための自衛の措置は当然のことである。

この自衛の措置は、自国のみでしか行ってはならないとは述べておらず、現状のように巨大な軍事力をちらつかせ事あるごとに脅しを行う中国が存在する以上他国との協力で我が国の防衛を行うのは当然のことである。

現実の世界では、至極当然のことを憲法学者などは、机上の空論を述べ恰も日本国憲法を守っていれば、日本の平和が保たれるなどの幻想を抱き、現実の政策を批判している。 

また、野党は政争の具として、この集団的自衛権論争を行っている。 一部の議員の中には、日本が中国の一部として取り込まれるのを承知で、この問題を取り上げているものもいるような気がしてならない。 

真にこの日本の平和と安全を維持できる体制を築き上げて欲しい。 

今の日本が他国に侵略行為を行う国に変えてゆこうと思っている人間は、殆どいない。ただし他国からの侵略や干渉に対して毅然とした国に変わりたいと思う人々がさらに多くなるのを願ってやまない。


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集団的自衛権憲法違反について [ちょいと 一言]

先日参議院で、憲法学者を呼んで集団的自衛権について憲法学者の意見を聞いたという。

憲法学者たちは憲法の条文から集団的自衛権が違憲であるという意見を述べたそうである。

だが私はこれら憲法学者の意見とは異なる意見を持っている。

現在の日本国憲法は、国は国民の生命安全を守る義務、領土保全の義務を明示していないと聞く。本来、国はこれらの義務を持たないで、国民にその他の責務を負わせることはできないと思っている。

国内では、無法者に対しては警察がこれら無法者に対して国民を守る機能を果たしているが、他国より脅威に対しては今の憲法では国民を守る義務を明記していない。

憲法前文に書かれているように”平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して”とのように国際社会性善説を前提に書かれている。現実の世界を見回してみれば各国の利害のぶつかり合いで世界各地で争いが生じている。特に近隣二か国は我が国への敵愾心むき出しに世界中に日本批判を繰り返している。

また尖閣諸島、竹島では我が国の領土領海を公然と侵犯してきている。さらに中国においては南シナ海で公然と他国領海を侵犯して、軍事施設を次々に作りつつある。相手国の軍事力を推し量って、公然とこのような行為に及んでいる。このような中国に対抗するには、同盟国との協力によるしかない。この為に集団的自衛権が必要なのは明らかなことである。

しかしこのような状況においてさえ、憲法九条を持ち出して違憲であるため集団的自衛権は認められないと叫び続けている。

私は、憲法を守る事より、国民を守ることを最優先で考えねばならないと考える。

憲法九条2項だけを見れば”陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。”との字面では陸海空の自衛隊さえ許されないと言う事になってしまう。国家の最低限の生存権を保障するためには自衛隊を認めているのが現実である、一国のみの軍事力で中国やロシアなどの軍事大国に対抗するためには複数の国々との軍事的協力関係を持つことは当然のことである。自国のみの平和を求めるために他国を利用するような利己的な態度では他国の信頼を得られず協力も得られないことは誰が考えても明らかであろう。日常生活でも各個人が隣人たちとの関係で自分の平安のみを考えて隣人たちの協力を得ようとして、隣人たちの協力要請を拒めば良好な隣人関係が得られないのは多くの人々が理解していることであろう。

しかし日本人は、国家の安全保障のことになると、極端に利己的になってしまい一国平和主義、または自分のみが理想的な平和主義者であるとの独善に陥ってしまう。

話を一寸先の戦争直後の話をしたいと思う。

山口良忠と言う裁判官がいた。戦争直後のことで食糧事情は極めて切迫していて、国の配給制度で行われる食糧では命を食いつなぐことは出来ず、多くに国民は闇市で食糧を得て生きながらえていた。しかし国の法律では、食糧管理法でこのような闇市での食糧のやり取りを禁じていた。山口良忠裁判官はこのような闇取引を取り締まる側の立場に身を置くものとして、闇市からの食糧を自らは食することを拒否して病を得て死んでしまった。彼の行動を見て法に準じた清廉潔白な人間であると評価する人が多くいるであろうが、私はそうは思わない。悪法を守り命を縮めて何の意味があろうか?わが身は清廉潔白な人生を完結して満足かもしれないが、この悪法によって命を縮められた一般国民をどのように救うことができたのか?悪法の下でも、この法の抜け穴を見つけて食うに困る人間を救う手段を考えてやることが先ずは出来なかったのかと彼に問いたい。さらに進んでこの悪法は国民の生活を圧迫するものなのでこれを解決する手段を提起するべきであったろう。

これと絡めて今の憲法が実情に合っていないのを知りながら、憲法を順守することが第一優先で、国家の安全保障は憲法をちゃんと整えてからと言っているのは、憲法が認めない以上国民の命が危険に曝されても致し方なしと言っているように思えて仕方がない。

一刻も早く日本がまともな国になることを祈ってやまない。


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平和主義、反戦、非暴力 [ちょいと 一言]


今、日本の政治の世界では、集団的自衛権とか、反戦、非暴力

平和憲法堅持とか、種々議論されている。


私は、終戦直後の生まれで直接戦争経験はない。子供のころは家の周りには、たくさんの焼野原が広がっていてそこが私たち子どもの遊び場だった。繁華街(上野の地下道など)に行くと、白い傷病服を着た、片手、片足姿の傷病軍人が首から募金箱をぶら下げていた。

銀座4丁目の交差点では確か米軍軍人が箱の上に載って交通整理をしていた風景を思い出す。皆貧しい生活をしていた。我が家は、東京の下町に戦前からあり、東京大空襲の際には、多くの被害者が出て焼死体が足の踏み場もないくらい転がっていた話を聞いたものだ。少し離れた恩賜公園では、小高い丘があり大人の話では東京大空襲の際に死んだ人々を集めて埋めたところだと聞いた。


そのような、悲惨な経験を聞かされながら私たち戦後生まれの子供は育ってきた。

この当時は、もう二度とあのような悲劇に遭いたくない。

自らの戦争行為で、二度とこの様な悲惨な目に遭いたくない。と多くの日本人は思った。現在もこのような思いを持ち続けている人が、日本人の大多数であろう。


しかし、そしてそのような中、日本の周りの世界では、平和ではないな出来事が起こっていた。

私が小学生になる前には、隣の国(朝鮮半島)では、朝鮮戦争をやっていたのだが子供の私には、殆ど記憶には残っていない。そして小学生になったころ、李承晩ラインと言うのがあって、ここを越えたと言われた日本の漁船が、捕まり(拿捕され)、銃撃を受けた被害者が出たというニュースをラジオで聞いた記憶がある。

私が中学生になったころから始まったベトナム戦争は、高校、大学に進むにつれてだんだん激しさを増していった、ただ日本には軍隊はなく、自衛隊によってベトナム戦争に直接関わることはなかったが、何やら不穏な空気が流れていた。丁度高校一年生の秋にキューバ危機があり、連日緊張したニュースが流れていた。日本は直接関係はないにしても、アメリカの同盟国。当時は米ソが対立しいたので万が一の場合は第三次世界大戦になり、核戦争にでもなるのではと、高校一年生の私は心配していたが結局大事には至らず無事解決した。ベトナム戦争はその後十数年も続き、米軍がベトナムから撤退するという形で終わった。

またヨーロッパでは東西ドイツが分割され1961年にベルリンの壁ができこの壁を東ベルリンから西ベルリン側に命からがら脱出しようとした人々がテレビで報道されていた。ある人は東ドイツ兵銃撃され死亡したというニュースも流れていた。

また当時は知らなかったが1956年と言うから、私が小学生の34年生ごろハンガリーでソビエト支配に対するハンガリー動乱があったことを知った。

また大学生だった1968年にはチェコスロバキアでドプチェク第一書記による民主化(所謂プラハの春)にソビエトが武力弾圧を行った事件があった。この民主化のメンバーの中にその前の東京オリンピックで活躍した、チャフラフスカがいたのが印象に残っている。

そして時代はずーと下って、ベルリンの壁崩壊、東西ドイツ統合、ソビエト崩壊とつながった。この流れを受けて隣国中国でも民主化進めるかに見えた胡耀邦の死をきっかけに起こった天安門事件が武力弾圧を受けて民主化の目を摘まれてしまった。この際に多くの若者の血が流された。

このような中でも、日本だけは、一滴の血を流さずに平和を享受してきた。

しかし、これは本当に日本人自身の手で平和を守り抜いてきたのであろうか?日本には、米軍基地があり万が一他国からの侵略を受けるよう場合は、米軍が安保条約の関係で日本を守ってくれるはずであると信じている人々が数多くいる。また日本には平和憲法があり日本による軍事行動を行わないので、他国が攻めてくることがないと主張する人も数多くいる。

本当にそうであろうか。

日本と韓国との間には嘗て李承晩ラインと言うのが一方的にひかれていた、この李承晩ラインがひかれる前この地域を管理していた米国が承認も得られなかったが、当時日本には韓国軍に対抗できる武力も保持しておらず、なすすべない状態であった。この流れで竹島も韓国が占領し現在まで支配しているのである。

また近年、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めていて、日本が管理している領海侵犯を頻繁に繰り返している。現在は、韓国が竹島を占領した当時とは異なり、相応の軍事力を有しており、韓国が行った時のように容易に占拠することが難しいのが実情である。

しかし、一部の中国の軍人の中には、尖閣諸島のみならず、沖縄自体も本来中国に帰すべしと主張する者までいる。万万が一、もし沖縄が中国の支配下になるようなことがあれば、天安門で行ったようなことや、チベット、ウイグルなどの少数民族に対する弾圧と同じよなことを沖縄住民に行いかねない(充分その可能性が高い)。

このような事態に陥らないように、日本は日本自身の手で断固守り抜くという覚悟を持つべきである。

東ドイツの住人や、ハンガリー、チェコスロバキア、チベット、ウイグル、また民主化を求める中国国民のようにならぬよう。

彼らはソビエトや中国の軍隊に武力では、圧倒的に劣ってはいても決然と、支配者への抵抗の意思を示した。

日本に、この様なことにならぬよう、事前に十分な備えをする必要がある。日本一国では守り切れないからこそ、他国との協力関係を作り上げておくことが必要である。

それ故、今日本には集団的自衛権について十分な議論を行い備えを行っておくべきなのだ。憲法9条の空念仏をやめて。。


“リベラル、革新、進歩的”について [ちょいと 一言]



 特に最近(最近だけではないか?)テレビや新聞などで気になってしようがないことについて、一言発言させていただきたい。

それは 現代の日本(特に)おいては“リベラル革新、進歩的”等の言葉が、良い意味でつかわれている。これに対する対義語が“保守的”などである。ある場面では“歴史修正主義”等と呼ばれ批判の対象とされている。


私には“リベラル、革新、進歩的”という言葉は欺瞞的、独善的権威主義的”等の言葉が連想される。
 

リベラル”、とはLibertyなどから分かるように自由な、考え方に偏見のないという意味のはずだ。だが日本では、革新的、進歩的などと同義語として使われている。

 “進歩的“自分たちの考えが他の人々の考えより”進んで、優れた“考えだという意図でつかわれている。これこそ私は”独善的“と感じている証拠なのだ。

西洋思想の中に啓蒙思想と呼ばれているものがある。これも私に言わせれば“独善的”そのものである。“啓蒙思想”の対象としているのは“蒙昧”から分かるように道理に(くら)人々自分思想啓かせる(ひらかせる)という驕りった立場思想であったよう思想づい進化という考え方
 

この“進化論”の頂点にいるのは、自分たち“人類”ですべての生物の中で最も“進化した”存在だとする考え方のように私には思える。

このような進化論的な考え方と"リベラル、革新、進歩的"という考え方が相通じるものである。だから私は、このような考え方を“独善的”と言うのだ。

 では、私は、独善的ではないのか? 私も私の考えは正しいと思ってはいる。ただし全てにおいて正しいとは思っておらず、私と異なる考え方を持つ人々の存在も受け入れる。寛容的てありたいと思っている。


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動物動画を見て [その他]

先日TVで動物の動画を見ていたら興味深いものを見つけた。

生まれて間もないヌー赤ちゃんと雌ライオンの動画だった。



アフリカの草原でヌーが子供を産んだ直後、そこに雌ライオンがやってきた。母親ヌーは恐れて逃げ去った。残された赤ちゃんヌーは雌ライオンの餌になってしまうと思っていたら、怖れを知らぬ赤ちゃんヌーは雌ライオンに近づいて行ってしまう。恰も雌ライオンに懐いているかのように。そうすると雌ライオンも赤ちゃんヌーを餌にせずに助けてしまう。あまりにヌーが無警戒でライオンに懐いてくるのを見て餌とすることが出来なかったのか?

 またInternet動画でも似たような動画を見つけた。こちらも子供のヌーと雌ライオンの話だ。先ほどの赤ちゃんヌーよりはもう少し成長したヌーの子供が草原を歩いていると雌ライオンが現れる。雌ライオンはヌーを見つけると餌にすべくヌーを追い掛け回す。こちらのヌーは、ライオンの怖さを知っているようで必死に逃げ回るがとうとう雌ライオンにつかまり首根っこを押さえこまれてしまう。でもここから興味深い出来事が起こった。押さえていたヌーの首をライオンが離すとヌーは何とライオンにジャレ付くが如くライオンに近づいてゆく。そこでライオンはヌーを餌にするのをためらっている。ヌーの子供はライオンの懐に潜り込み懐いているようだ。そこに別のライオンが近づいてくると、ヌーに懐かれたライオンは、後から来たライオンに牙をむき出しにしてヌーを庇い襲い掛かるライオンから守ってやる。


この2つ動画を見て“本来餌となるべき対象を、何故庇護の対象に変わるのか?”が非常に興味を持った。対象があまりの無防備にライオンに信頼を寄せるからなのか?人間の世界でいううところの憐憫の情がライオンに現れたのか? ことわざに 、”窮鳥懐に入らば、猟師も殺さず。”というものがあるようだが、私は今までは“憐憫の情”等は人間特有のものと勘違いしていたようだ。もしかすると“人間は特別”という思い上がりを思っていたのかもしれない。

 

でも私と我が家の愛犬”クロちゃん“との間には人間関係と同じような感情をお互いに持っていたのだから、”人間だけが特別“なんて間違った考えだと最近つくづく考えさせられている。



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クロちゃんの思い出2 (自動車好きのクロちゃん) [ペット]

クロちゃんは、私が車を運転するときはいつも一緒だった。


クロちゃんといつも一緒だった車がこれだ。アコードワゴン。2002年に我が家に来てから今年の2月26日まで役立ってくれた。この車は今年が車検の年でこれを機に新しい車に切り替えようと思って1月の初めに車屋に行って新車へ乗り換えるところだった。クロちゃんとこの新しい車に乗って、家族の送り迎えや買い物などに、元気なクロちゃんとと思っていたところだったのに、新しい車が来る前にクロちゃんは天国へ行ってしまった。

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 クロちゃんは車に乗るといつも運転席に座る。そして私が後から運転席に座ると、私の膝の上に割り込むようにして乗っかり私と一緒に運転しているのが当たり前のような顔をしていた。

そしてハンドルを握っている私の手を時々ペッロと舐めたり、疲れてくると私の腕にクロちゃんの顎を乗せ体を私にもたせ掛けてくる。私のことを信頼しきってくれているのだなと思い、クロちゃんいつまでの長生きするんだよといつも語りかけていたのに。。

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クロちゃんの思い出 1 [ペット]

クロちゃんが逝ってしまってから今日で三日目。クロちゃんが遠い彼方へ行ってしまったように感じる。

でも、毎日の生活の中にクロちゃんとの思い出が沢山詰まっている。

朝起きるとすぐに散歩へ行っておしっこ、うんちをさせる。私は長い距離歩くことがつらいので、自転車をゆっくり走らせながらクロちゃんと散歩の毎日だった。雨や雪の日は、クロちゃんに赤いレインコートを着せ、私もおそろいの赤のレインコートを着てお散歩を繰り返した。お散歩中にしょっちゅうクロちゃんに声をかけながらの散歩だった。声をかけるたびクロちゃんは、私のほうを振り返る。クロちゃんこっちの道に行こうというとその意味を分かってか、そちらのほうにいっしょに歩いて行ってくれる。

家に帰ると足を洗いお尻を洗うため、風呂場に連れて行っていたのだがこの習慣も家の中で飼うようになった直後からなのだが、特に厳しく躾けたわけでもないのに、クロちゃんはすぐに受け入れてくれた。

また冷蔵庫の扉を開けるたび寝ていたクロちゃんは頭をもたげ興味津々。プラスチックの容器のがさごそする音を聞きつけるとすぐにそばに寄ってきて恰も”それなあーに。私にも頂戴。”と言っているかのように見つめる。そして”クーン、クーン。”と鼻声を鳴らしおねだりする。ついついこのおねだりに負けて食べ物を与えてしまうと、それを見ていた息子たちに、叱られる。

息子たちの通学や通勤に毎日駅まで送り迎えをする際クロちゃんも”私も一緒に行く。連れてって。”と出かける様子を見せる。車のドアーを開けてやると自分でさっと運転席に座る。私が運転席に座ろうとすると、すぐ私の膝の上に座ることが、当たり前の習慣。

銀行や市役所に行く際もいつもクロちゃんは一緒についてくる。銀行やカウンターでは、私の膝の上や、机の下に潜り込んでおとなしく待っている。

買い物や妻を銀行に連れてゆく際、妻が用を済ませるまでの間は、車を降りてちょっとお散歩。そしておしっこ。いつも通う場所を覚えていて、スーパーマーケットや銀行の駐車場に停まるとすぐにお散歩させてもらえるものだと分かっているようで、私の顔を振り返って見て、”降りていいんでしょ?”というかのようだ。

また飼いはじめてから、最期を迎えるまでお世話になった動物病院は嫌いで、その近くを通るだけで、ぶるぶる震えだす。動物病院は二階にあるのだが、この病院に連れてゆく際、車から降りてこの階段を上るまでは、お散歩気分でいそいそと昇ってゆくのだが、入り口を見ると後ずさり。中に入るとぶるぶると震えだす。不安で堪らない様子。少しでも、不安を和らげるべく、膝の上に抱っこしてやる。診察室には怖がってなかなか入ろうとしない。そこでさらに”抱っこ”というとクロちゃんの前足を私の肩の上にかけ、抱き上げやすい体勢になってくれる。

いつも、このように過ごしてきたクロちゃんは、もう居ない。

クロちゃんには、大好きなボーイフレンドが近くの家にいる。名前は”どんちゃん”という。歳はクロちゃんより一歳年上とのこと。散歩の最中クロちゃんが”どんちゃんを見つけると、大好きなボーイフレンドを見つけて、どんちゃんがこちらに来るまで”伏せ”をして待っている。近くに寄ってくると、嬉しくって、嬉しくって、尻尾を大きく振って抱きつかんばかりにはしゃぎ回る。どんちゃんには一緒に飼われていた、レトリバーがいた。このレトリバーはクロちゃんのことを、好きではないようで、どんちゃんの家の庭を通りかかるとレトリバーは吠えかかる。そのレトリバーをどんちゃんは諌めて吠えかかるのを止めさせてくれる。時々どんちゃんは自分の家の庭から脱走するようである。ある日我が家の玄関先でごそごそ音がする。ドアを開けてみると、どんちゃんが、我が家を多分訪ねてきてくれた。”クロちゃんいる?"と言っているかのようだ。たまたまこのとき、クロちゃんは散歩中で留守。”クロちゃんは今いないよ”というとまた何処かへ行ってしまった。このどんちゃんに、クロちゃん用に買ったばかりでほとんど使っていないドッグフードを貰ってもらった。きっと大好きなどんちゃんに食べてもらえるのを天国で喜んでくれているだろう。

まだまだクロちゃんとの思い出は尽きないが、今日はこれまでとしよう。

クロちゃんの思い出を忘れぬよう、今後もまた此処に書き残すこととする。


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クロちゃんのお葬式 [ペット]

今日は いよいよククロちゃんとの最後のお別れです。

昨日病院からクロちゃんが帰ってきて、いつもクロちゃんが寝ていたところで生きているかのように横たわっている。もうすぐペット霊園に連れてゆき最後のお別れをしなければならない。

クロちゃんはもうすでに死んでいるのだが、私には生きているように感じられ、病院に入院していた時よりも不思議と寂しさは少ない。でももう少しで本当にクロちゃんの姿がこの家から見えなくなってしまう。

昨日、今まで撮りためたクロちゃんの写真を整理していたら、今までのクロちゃんとの思い出が沢山浮かんできた。

でも本当にクロちゃんに感謝しなければと思ったことは、クロちゃん病気で最期を迎えようとし来てた苦しんだ時期でも、我々家族に迷惑をかけないように、おしっこ、うんちの時にはふらふらしながら立ち上がり外に行こうとしていた。外からの帰りには家へ入る段差を上るのが、大変でずーっとその前でためらっていて、思いを定めてようやく段差を一段上る、玄関に入ってからも上がり框のもう一段。人間のように喋れていたらその苦しさを話していたことだろうに、クロちゃんは喋らず必死に家族の意向に沿おうと努力していた。私はその頃クロちゃんの病気は一時的なもので、病院に連れてゆき治療すれば元のように元気になれるのだと高をくくっていた。本当にクロちゃんごめんね。

医者がいろいろな検査をした結果クロちゃんの体は、脾臓、肝臓、膵臓、腎臓が、癌に侵されていて多臓器不全の状態だったようです。クロちゃんのつらい状態気づかずこんな状態になるなるで放っておいて、本当に申し訳なかった。

でもクロちゃんの思い出は、家族全員いつまでも持ち続けているよ。

クロちゃん、さようなら。


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最愛のクロチャン死す [ペット]

今朝 動物病院から電話があった。

直感で、悪い予感。昨日見舞いに行った時の状態である程度覚悟はしていたが。

今日は、クロの最期は家で迎えさせてやりたいと思っていたのに。

悲しくて悲しくて、大声で泣いてしまった。雪の降る日に一人で病院で死んでいったクロのことを思うと可哀想で可哀想で、何度も何度もクロに謝りたい。

入院していた病院から、ようやく家に連れ帰った、まだ硬直していず、いつものように眠っているかのようだ。こんなにクロが死んでしまうのが悲しいことだとは、ある程度は覚悟していたのだが、これからクロのいない生活を送っていかなければならないと考えると呆然としてしまう。

いつまでのクロと一緒にいたかったのに。。

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この写真が入院直前の最期の写真となった。

2012年2月23日17時09分

多分この頃は体調がかなり悪くつらかったのだろう。でも大好きなママのそばにいて安心できていたのだろう。


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クロの病気 [ペット]

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 久しぶりにクロの話を書こう。

クロは今年14歳になる。人間の歳でいえばかなり高齢だそうである。でも、つい最近まで、少しも老いを感じさせることなく、ますます、家族との気持ちを通じることができるようになり、全く、家族の一員として過ごしてきた。

退職し、病を患い、一日中家で過ごす私にとっては、良き話し相手でもあった。

DSCN0568_01.JPG常に私の近くにいて、一階の居間で休んでいると、私が見える範囲にいてクロも寝そべっている。夜家族が二階にある寝室に上がっていく際クロにいっしょに行こうと呼びかけても行かず、私が二階に行く様子を見せると寝そべっていたクロも。二階に行く様子を見せる。そして一緒に寝室に行き、私の布団の足元に置いてある、クロ専用の座布団の上に丸くなって寝る。

私が、車で出かけようとすると、クロも一緒に出掛けるべく玄関に先回りして待っている。車に乗ると、運転席にいる、私の膝の上がクロの指定席。

クロを置いて出かけ帰ってくると、私の帰りが分かるのか、玄関で伏せをして待っていてくれる。

家族が食事をすると、すぐそばに来ておねだりをする。なかでも、変わったものが好きで、海苔が好き。また麺類も好きスパゲッティー、蕎麦、ラーメンなど、とてもおいしそうにして、すするように食べる。

このように過ごしてきたクロが去年の4月末に、狂犬病の予防注射をした後、急に、右目に目やにが出て、翌朝目が開かない状態。すぐに行きつけの動物病院に連れてゆこうとしたがその日と、翌日が病院の休診日。仕方がないので目やにを拭いながら病院が診察を開始するのを待って、連れてゆくと、すでに手遅れ。右目は緑内障になりこれ以上悪化しないようにと目薬を処方された。それ以降クロの右目は失明。

でも、何とか持ちこたえ、今年の2月まで過ごしてきた。2月に入ると、急にクロの体力が落ちたのか今まで自力で昇り降りできた、階段を昇るのがつらい様子。医者に様子を説明すると関節炎などで痛いのではないかと言われ、鎮痛剤を処方される。次に便が軟便になり、やがてひどい下痢をするようになりこの話を医者にすると下痢止めの薬を処方される。しかし一向に良くならず、終いには、食事も水も受けてけなくなり、すぐに吐いてしまい、ぐったりしてしまう。嫌がるクロを、タオルでぐるぐる巻きに包んで、抱えて車に乗せて、医者に連れてゆく。

病院で血液検査や、エコー診断、レントゲン検査をした結果、多臓器不全の状態にあり、特に脾臓に癌があるようだとのこと。水を全く受け付けないような状態なので、脱水症状が出ているとのこと。早速入院し点滴を開始。

今日で入院2日目。入院初日は、いつも12Kg位ある体重が9.5Kgに減っていた。点滴の効果か体重も大分回復し、今日見舞いに行ったらケージの中でふらつきながら立ち上がり、水を飲んでいた。

ケージのそばで、呼びかけると私たちに気づきふらつきながら私の手に鼻先を押し付けてきた。多分ケージから出して、家に連れ帰って頂戴と言っているのだろう。見ているこちらが堪らず涙を流してしまった。別れがたいが、今日の見舞いを済まし、家に帰ってくる。いつもクロが座っているところにクロがいない。寂しくってやりきれない。

元気になって、退院できるとどんなに嬉しいだろう。


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